ジョーカー2号さんのバックナンバーPART.2です


2004/12/10
ジャヤギリ日記(その17)「笑わない男」
 バリは本格的な雨季に入って、このところ毎日のように雨が降っている。と言っても、バリの雨 は意気地がなくて、2時間以上降り続くことは稀である。ところが昨日はまるで日本の梅雨のような雨が降って、お陽さまがまる一日顔を出さなかった。

 12月に入っていくらか涼しくなったが、10月の中旬から11月にかけては、とても暑かった。日本の夏の38度などといった気違いじみた暑さではなく、せいぜい32、3度ぐらいであるが、夜更けに、首のあたりから汗がたらっと流れ出し、ナメクジでも首のまわりをうろついているか、と気持ちが悪くて目覚めたことが何度かあった。ベッドから抜け出して、タイルの上に直に寝たことも何度かあった。タイルの上は、ひんやりしていて気持ちがよい。


 さて、「笑わない男」の話。
 10月のある日、家内の学生時代の友人であるトリス(仮名)から電話があった。彼は,大学は出たものの、しがない運送会社の配送係をやっていて、信じられないぐらいの薄給である。げっそりと痩せていて、笑った顔を見たことがない。インドネシアではめったに見かけないまじめな男である。

 電話の用件は、いきなり「15,000,000ルピア(約20万円弱)貸してくれ」ということだった。我が家にそんな大金があるはずもないが、妻が事情を聞くと、「懸賞に当たった」という話。懸賞に当たって金が必要になるのもおかしな話なので、さらに事情を聞くと、「懸賞には、25%の税金がかかる」という。どうも様子がおかしいので、「とにかく家に来てみてくれ」ということで電話を切った。

 20分もすると、トリスが妻と2歳ぐらいの息子を伴ってやって来た。インドネシアではあたりまえの、バイク3人乗り、というやつである。3人乗りどころか、4人乗りも珍しいことではない。めったに見かけないが、私は、大人2人と子供3人の5人乗りも見たことがある。

 手に封筒を持ってあがってきたトリスは、「本当に当たったんだ、間違いないだろう」と、封筒に収められた書類を取り出した。今朝、郵送されてきたのだそうだその当選通知は、インドネシア国内で有名な「ペプソデント」という練り歯磨きを製造販売している会社からのもので、トリスの妻が書いた応募用紙が添付されていた。1ヶ月ほど前にスーパーマーケットの投票箱に入れたのだという。書類の中には、ノタリスト(公証人)の証明書まで付いている。もちろんコピーしたものではあるが、いかにももっともらしい。

 「今日中にお金(税金)を払い込まないと、無効になってしまうんだ。ほら、ここにそう書いてあるだろう」とトリスが言う。慌てるわけだ。
 「とりあえず、ここに書いてある連絡先に問い合わせてみたらどうだろう」とトリスが言うので、「無駄なことだ、やめろ」と私は言ったのだが、トリスが携帯電話を取り出したので、彼の言うとおりにさせた。電話番号は、ジャカルタ市内のものである。電話に出た相手は、「間違いありません。今日中にお金を振り込んでください」といったそうだ。 

 トリスの陰気な顔つきが、舞い上がりそうになっている。呆れ顔の私を見て家内が、ペプソデントのデンパサール支社に電話してみようと提案した。事件はあっけなく解決した。
 「当社では、そのような方法で懸賞の当選通知はしておりません。最近同じような詐欺があちこちで起こっていますので、ご注意ください」という返事だったそうだ。

 それにしても、インドネシア人にしては、手の込んだことをやるものである。おそらく、当選しなかった投票用紙を廃棄する過程で、その用紙が詐欺師の手に渡り、詐欺の手口に使われた、ということなのだろう。自筆の応募用紙が添付されていれば、信じてしまう人はけっこうな数に上るのではないだろうか。「オレオレ詐欺」に引っかかるぐらいだから、こんな手口の懸賞詐欺が日本で起こったら、危なそうだ。読者諸氏に注意を喚起しておきたい。また、この文章に書かれたことを参考にして、一丁引っ掛けてやるか、などと考えるのはいいにしても、絶対に実行しないでいただきたい。

 さて、われらがトリス。なんともいえない苦笑いを浮かべると、郵送されてきた封筒に書類一式をきちんと戻し、コップの水を一口飲んで、帰っていった。この事件が関係したのかどうか定かではないが、それから3週間ほどして、彼の妻が子供を残して田舎に帰ってしまった。近々離婚するのだそうだ。(2004,12,8)


2004/11/4
ジャヤギリ日記(その16)「かゆくなる女」
 バリ島は神々の棲む島なので、いろいろ不思議な現象がおこる。

 例えば、お葬式や娘の結婚式などの最中に、父親などが失神してしまうことなどはよくあることで、私も何度かそのような情景を目撃したことがある。
 あるいは、ある日見知らぬところから、「おめでとうございます、懸賞であなたにバイクが当たりました。」などといった電話がかかってきてくる。「ついては、バイクの登録にしかじかの費用がかかるので、お金を振り込んでほしい」などといった子供じみた詐欺に引っかかってしまう人も多いそうだ。
 そういえば日本でも、「オレオレ詐欺」というのが流行っているそうで、今回の新潟中越地震にかこつけて同様の詐欺師が暗躍しているところなど、いかにも「終わった国」の末期的現象のひとつか、とジローさんと話すことがある。関係はないが、「オレオレ」という言葉はインドネシア語で、「お土産」という意味である。

 話が横道にそれたついでに、今回の地震については、バリ島でもかなり話題になっており、こちらの地方紙「バリポスト」には、2回にわたって一面トップにカラー写真付で報道されていた。
 バリ島でも地震がないわけではないが、私はこの10年ほどの間に、震度3ぐらいの地震に3,4回遭っただけである。日本人はそのぐらいの揺れでは、騒がないが、バリ人はあまり慣れていないせいか、大騒ぎをする。

 さて、そろそろ「かゆくなる女」の話をはじめなくてはなるまい。

 彼女は現在、年のころ30代後半のバリ美人である。父親はジャワ島出身の軍人、母親はごく普通のバリ人で、バリ島で生まれた。学生時代だというから18か19歳の頃であろうが、学資を稼ぐために、軍人宿舎の応接間で母親と一緒に美容院を開いたそうだ。正式のビューティー・サロンではないから、たぶん値段も安かったのだろうが、カットや、クリームバス(頭のマッサージ)など、けっこう繁盛したそうだ。

 ある日彼女が大学で経済学の講義を受けているとき、突然、右手の手のひらが痒くなった。(虫にでも刺されたのか知らん)と思って手のひらを見たが、そのような形跡はない。あまり痒いので、左手で掻いてみたが、なかなか痒みは取れなかった。

 さて授業が終わって家に帰ってみると、4人ものお客が、応接間で待っていたそうだ。またある日、道を歩いていたとき、急に右手の掌が痒くなったので、どうしたんだろうと思ってふと足元を見ると、2万ルピアのお札が落ちていたそうな。その後もこのようなことがたびたび起こったので、彼女は(右手の掌が痒くなるのは、どうもお金がどこかから入ってくる前触れらしい)と思ったが、そんなことを他人に話すと笑われるかもしれないし、ご利益が無くなってしまうかもしれないと思って、ずっと黙っていたそうだ。

 今月の初め、デンパサール市のテニスコートで、ヌサドゥア・オープンテニス選手権大会が開催された。この大会は、国体クラスのプレーヤーがインドネシア各地から参加する、由緒あるテニス大会である。
 私や彼女のレベルでは、参加するのが憚られる大会なのだが、テニス仲間に半ば強引に誘われたので、参加費5万ルピアを払ってしまった。その時なぜか、右の手のひらが猛烈に痒くなったそうだ。

 さて大会が始まった。普通は予選を何回か勝ち抜いて、本選に出場できるのであるが、彼女はいきなり本選に出ることになってしまった。ちょうど同じ時期に、スマトラでもっと賞金の多いテニス大会が開かれていて、有力な選手が皆そちらに出てしまい、参加選手が少なくなってしまったということだった。彼女は、シングルスもダブルスも1ゲームを取っただけで敗退したのだが、それでもベスト16である。賞金が出た。1勝もせずに、なんと31万5千ルピア。
 実は私も、その大会に出た。男子はいくらか出場者が多くて予選トーナメントから始まった。シングルスでは、高校3年生と対戦して、6−0、6−0で敗れた。ジュースに2度持ち込んだが、1ゲームも取れなかった。(オレももう歳か・・・)とがっくりしていたら、予選で敗退した中から抽選で2名が本選に出場できるとのこと。
 翌日の抽選会に出かけたら、これが当たってしまった。ところが本選の相手は第1シード。2ポイントを取ったゲームが3回ほどあったが、これも6−0、6−0で敗退。ところがところが、私はベスト32ということで、賞金62万ルピア(約8千円)を獲得したのであった。ダブルスは、日本人のKさんと組んで、予選を8−0で勝ったが、本選は8−3で敗退。ダブルスの賞金はなし。

 10月9日、パースに出かけた。ビザを取るためである。ビザがおりるまで、例によって3日間カジノに通った。今回は熟慮に熟慮を重ねて、あまり勝てないまでも負けないための作戦を立てた。ルーレットに絞って、何とか10万円ほどのアップに持ち込んだ。
 家に帰ってから、彼女に、「どうだい、オレが留守のあいだに痒くなったかい?」と聞いてみたら、2日前の晩、寝ようとしたときに右手の手の平が痒くなったのだそうだ。「おおっ、ちょうどその時分、オレはつきまくっていたときではないか!」

 賢明な読者諸氏はもうおわかりのように、「かゆくなる女」というのは、実は私のかみさんである。今後よほどお金に困ることがあったら、彼女が熟睡しているときに、右手の手のひらにウルシでも塗って、急場をしのごうかなどと考えたりもするが、「金の卵を産む雌鳥」になっては大変なので、とりあえずそっとしておこうと思う。(2004,10,22)



2004年9月16日


ジャヤギリ日記 (その15)

「ロイヤルフラッシュ」

 ハートの ≪A K Q J 10≫。

 一瞬、自分の目を疑った。頭の中を、ピンクのハートがかけめぐった。
8月7日午後8時10分過ぎ。パースのカジノ、バースウッドに空港から直行し、ポーカーを始めてまだ2時間足らずしかたっていなかった。

 ポーカーでは、ディーラーと向き合う形で半円形のテーブルがあり、7つの席がある。そのときは満席、つまり7人のプレーヤーがいた。私の席は、中央の席の右隣だった。中央の席には、歳のころ三十二、三のちょっと小太りで、男好きのするオーストラリア人の女性が座っていた。彼女はワイン、私はウイスキーの水割りを飲んでいた。

 こんなことが本当に起こるものなのだろうか。ロイヤルフラッシュ、それも配られたときから、≪A K Q J 10≫の順番でそろっていたのだ。ワンペアやツーペアでさえ、≪10,3,8,10、K≫といったように配られてくるのが普通なのである。プレーヤーは、それを≪10,10,3,8、K≫のように並べ替えて、賭けにのぞんだりするものなのだ。

 バースウッドのポーカーは、機械(日本製)でシャッフルしている。つまり、ディーラーは、機械がシャッフルしたカードをプレーヤーに配るだけで、そこには何の種も仕掛けもないようになっている。プレーヤーは、配られたカードを開いて、勝負に乗るか、降りるかの判断をするのだが、たとえ自分がスリーカードでも、ディーラのカードが揃っていなければ、勝負は成立せず、非常に空しい思いをする。

 ただし、フラッシュ、フルハウス、フォーカード、ストレートフラッシュ、ロイヤルフラッシュには、勝負に関係なく特別にボーナスが支払われる。フォーカードには500ドル、ストレートフラッシュには、積立金の10%、ロイヤルフラッシュには、100%のボーナスがつく。積立金というのは、一勝負ごとに1ドルを別に賭けたものをカジノ全体でプールしておくもので、そのときの金額は、23,800豪ドル余りであった。

 ただ非常に残念なことに、その時のディーラのカードは、ノーペア。

 シェレーネと言う名の若いディーラーは、なれた手つきでプレーヤーのカードを開いて、「役」の有無を確かめていく。まさか彼女もロイヤルフラッシュなどができているとは思わなかったのだろう。重ねられたカードを無造作に開いて、カードだまりにしまおうとした。

 何人かのプレーヤーが小さくどよめき、彼女の手が止まった。ゆっくり確かめるように開いていく。ディーラーを含め16の瞳が、カードにくぎ付けになった。

 ハートの≪A K Q J 10≫が、きれいに並んでいた。
 ディーラーのシェレーネが、口をつぼめて口笛を吹く。バースウッド独特の息を吸い込む口笛である。黒い背広にネクタイを締めた役職の男がやってきて、両手を広げて目を丸くする。しばらくして、いかにも貫禄がありそうな、より上級の男がやってくる。

 ポーカーでは最高の役、ロイヤルフラッシュである。すぐにお金が支払われるわけではない。 上級の男の指示で、ディーラーのシェレーネが残りのカードの点検に取りかかる。色別にエースからキングまで順序よく並べていく。万一の不正をチェックすると言うことらしい。我々7人のプレーヤーの目の前で、きれいに並べ終わって、ロイヤルフラッスが正式に成立したのである。テーブルの後ろには、人だかりが出来ていた。

 上級の男が、「小切手にしますか、チップ(現金)にしますか」とたずねてくる。もちろん、チップのほうを選ぶ。

 ややあって、坊主頭のいかつい男が、チップを入れた透明のプラスチックケースを持って登場する。チップの支払いは、ディーラーの役目である。シェレーネがケースからチップを取り出して、確かめるように並べていく。

 5,000ドルチップが4枚。500ドルチップが6枚。100ドルチップ8枚。
5ドルチップ4枚。1ドルチップ4枚。総計23,824豪ドル、日本円にして約210万円也であった。

 ロッジのオヤジとの会話(空港に送ってもらう車の中で)
 「どうしたね、今回の勝負は?」
 「あまり話したくない」
 「ははぁーん、と言うことは、今度もやられたんだな?」
 「ノーコメント」
 「………」
 「ところで、かみさんに土産は買ってやったのかい?」
 「ああ、買ったさ。おととい、バースウッドのホテルで銀のネックレスをね」
 「何であんな高いところで買うんだ。空港で買えば免税でもっと安く買えるのに」
 「おとといは買えたんだよ。今日は買いたくても買えないの。わかる?」
 「……???」

 妻との会話
 「はい、お土産」
 「あら、すてきなスカートね」
 「……、まあ、ぴったり。あなた私のサイズ知ってたっけ?」
 「知らないよ」
 「じゃあ、どうしていつもぴったりのを買って来れるの?」
 「それはねぇ、まず君に似た体型の女性を探すんだよ」
 「それで?」
 「その女性とちょっと親しくなるわけさ」
 「どんなふうに?」
 「ウェストにちょっと腕を回したりするのさ」
 「・・・・・・????、!!!!」

 さて、私の左隣り、つまりテーブルの中央に座っていた女性は、ロイヤルフラッシュが出て、支払いを待つ間に、携帯電話を取り出した。

 「すぐ来てちょうだい。すごいの。ロイヤルフラッシュが出たの」

 しばらくして、彼女の旦那さんらしい男がやってきて、これも目を丸くした。
バースウッドのカジノは、奥行き50メートル、幅150メートルもの広さがある。旦那は、別のところでゲームに興じていたらしい。

 黒い背広の役職が、セキュリティーをつけて家までお送りしましょうか、と言った。しかし彼女はそれを断り、100ドルチップを私たち残り6人のプレーヤーに1枚づつ配ると、旦那と寄り添うようにして、カジノの人ごみの中にまぎれていったのであった。(2004,9,17)



2004年9月2日


ジャヤギリ日記 (その14)

「七日帰り」

 左眼に、ガキッと衝撃が来た。
暗紅色のモヤが、後頭部まで広がっていった。
ほんの一瞬、競技を続行しようと思った。が、(これはやばい)と、すぐ思い直して、左手で目を抑えながら、よたよたとその場を離れた。妻が駆け寄ってきて、手を引いてくれた。運動場の外にへたり込んで、なかば凍ったペットボトルを目に当てた。出血している。頭がズキヅキ痛む。

 看護婦さんをやっている人が、出血しているところをガーゼで抑えてくれる。左眼をそっと開けてみた。ぼんやりした景色が見える。どうやら失明はしなくてすみそうだ。


 「七日帰り」を忌み嫌う風習が、日本全国にあるのかどうか知らないが、北関東周辺にはこの風習があって、旅行などで家を出て7日目に家に戻ることを、よくないこととした。いわゆる、初七日とか四九日などの祭礼があるように、仏様と同じ行動をとるのは、縁起が悪い、ということなのだろう。

 ずっと以前、北海道を旅したとき、帰りがちょうど7日目になってしまい、その日の夜を、同じ町の親戚の家に泊めてもらってやり過ごし、8日目に家に戻ったことがある。

 さて、8月7日にバリを発って、パースに出かけた。ビザの更新のためである。バリに戻るチケットがなかなか取れなくて、帰りの便は、7日目の13日であった。沖縄から、友人の娘さんがハネムーンでバリにきているというので、11日の朝、荷物を持ってパースの空港に行き、キャンセル待ちをした。しかし、満席で座席を取れなかった。
 いやな予感がした。13日といえば、日本ではお盆の始まる日であり、しかも(あまり関係はないが)金曜日である。飛行機の会社は、「エア・パラダイス」。このままパラダイスに行ってしまうのではないかと、すこし恐れた。それとなく、周りの乗客たちの顔色をうかがってみた。彼らの中に、死相でも出ているものがいたら、事である。どうやら、これといった顔つきのものはいないようだ。

 さて、われらが、「エア・パラダイス」便は、バリの上空に達した。乗客の大半を占めていたオーストラリア人たちは、飛行機が無事デンパサールの空港に着陸すると、盛大な拍手を送ったものである。

 飛行場に迎えに来ていた妻と息子と一緒に、ヌサ・ドゥアのグランドハイアット・ホテルに行き、友人の娘さんとそのだんなさんに会って、しばらく話をした。彼らは、その日の夜の便で、日本に帰るのである。

 2日後の15日、ジャパンクラブ補習校の運動会があった。2種目めに、棒引き競技があって、直径4センチ長さ3メートルほどの竹の棒をまともに左眼に喰らったのであった。竹の穴の部分が、ちょうど眼球のところに来たのが、不幸中の幸いというべきか。

 妻に家まで行ってもらって、EM‐Xを持ってこさせた。ボトル半分ほどを一気に飲んで、目にも注いだ。顔や首筋からは、冷や汗が出ていた。落ち着いたところで、看護婦さんが血圧を測ってくれた。こちらは異常がないようだった。

 またしばらく休んで、病院に行った。竹の縁の部分が当たった目の下のところ二ヵ所が切れていて、細い糸で10針縫った。4日後に目医者に行って、目の検査をしてもらった。

 2週間ほどで回復するだろうと言われて、幾分ほっとした。それにしても、4日間ほどよくこれだけ寝られるものだと自分でもあきれるほど、よく眠った。ごろごろしているのに、食欲も旺盛である。ただ、両目でものを見ると、かなりダブって見えてしまうので、テレビも見ることが出来ないし、まして本など読むことも出来ない。なんと言っても困ったのは、蚊をたたくことが出来ないことだった。(このまま物がダブって見えるようじゃ、バリには住めない)と、悲観的な気持に陥った。

 目の周囲の腫れが引くにつれて、二重写しの状態は良くなっていった。一昨日、目医者に行って、テニスを始めてもいいだろうかとたずねたら、まだいくらか目から出血しているので、もう1週間様子をみたほうが良いだろう、と言われた。

 左眼はまだ、赤く充血している。(2004,8,28)



2004年7月26日


ジャヤギリ日記 (その13)

「テニスの季節」

 バリ島は、毎年5月に入ると雨季が明ける。湿度が下がり、朝晩はぐっと涼しく感じられるようになる。乾季は雨がほとんど降らないから、スポーツには最適の季節だ。


 5月10日、『ヌサドゥア・ロータリークラブ主催のテニス大会』が始まった。毎年5月に開催されるこの大会は、小学生から大人まで幅広い年齢層ごとに競われ、バリ島に在住している西洋人の参加者も多い。またプロ選手の試合も行われ、今年は、バリの若手プロやオーストラリアからのプロが出場した。

 昨年50歳以上のシングルスの部で優勝した私は、男子ダブルス、混合ダブルス、シングルスの3部門に出場した。妻と組んだ混合ダブルスは、8−5でフランス人ペアに敗れ、1回戦敗退。男子ダブルスは、2回戦で敗れた。

 第一シードにおさまったシングルスは、2回戦から登場。アルゼンチン人の“ローレンス”とは、8−2。3回戦からはセミファイナルで、3セットマッチの正式なゲームとなる。バリの壮年実業家 “Fさん”と対戦。1時間10分のフルセット(2−1)で勝利をかち取った。

 一夜明けてファイナルゲーム。相手は55歳のアメリカ人、“ラモン”。前日彼のゲームを見ていて、(ねばっこい奴だな)と思ったが、案の定ロビング主体の粘りのテニス。第1ゲーム、前半リードしていたがタイブレークの末おとしてしまった。第2ゲームは何とか6−3で取り返し、第3ゲームに進んだ。

 夕方の6時過ぎから始まった決勝戦は、この時点ですでに8時を過ぎていたようだ。さて、第3ゲーム。“ラモン”の粘りに私のミスが重なって、4−5とリードを許してしまった。その時、“ラモン”が突然コート上にうずくまり、両足を伸ばして、仰向けに転がった。あまりの熱戦に足が痙攣してしまったのである。かく言う私も、2度ほどふくらはぎにピリッと来ていたのであった。

 主催者が来て、5分間の休憩が宣告された。“ラモン”は4分以上経過してもまだ座り込んだまま。私は汗をぬぐい、悠然とEM-X(抗酸化力のきわめて強い飲料水)入りの水を飲みながら、(これで勝ったか)と思ってしまった。これがいけなかった。

 “ラモン”が立ち上がり、試合続行。5−5のタイに持ち込んだものの、ねばりに粘る“ラモン”の気迫に圧倒された私は、逆に気が緩んでしまって、7−5で敗れてしまった。試合時間は、なんと3時間10分。夜の9時半を回っていたのであった。

 さて、表彰式。3時間10分の熱戦は、参加者の話題になっていて、「ジョーカー2号、大丈夫か」などと、あちこちから声をかけられた。アマチュアの部は、木製のトロフィーだけが賞品であるが、この大会は「ラッキー・ドゥロー」と呼ばれるくじ引きが楽しみなのである。妻がレストランの食事券、私は、ハードロックホテルの2泊券が当たった。

 腕に覚えのある方は、バリ島観光をかねて参加するのも面白いと思う。大会期間は1週間、毎日夕方の6時からゲーム開始となる。



 7月7日、『日刊紙バリ・ポスト杯 ヴェテラン・テニス大会』が開幕。

 この大会は、1988年以来の歴史を持つ由緒ある大会で、バリ島の選手だけでなくジャワ島からも多くの選手が出場する。ちょうど学年休みの時期に開催されるので、家族旅行をかねてスラバヤや、ジャカルタなどの都市からやって来るのである。

 参加資格は35歳以上。
 男子シングルスは、35歳以上、40歳以上、45歳以上の3部門。同ダブルスが、35歳以上、40歳以上、45歳以上、50歳以上、55歳以上、60歳以上の6部門。女子ダブルスは、35歳以上の部のみ。ミックスダブルスは、男女の合計年齢が90歳以上。

 私は“Fさん(50歳)”と組んで、50歳以上の男子ダブルスに出場した。ところが、1回戦、2回戦とも対戦相手が現れず、不戦勝。労せずしてセミファイナルに進んでしまった。翌日のバリ・ポスト紙には、「日本人ペア、XXX(ジョーカー2号さんの本名)− F.組は、戦わずしてベスト4に進出した」と書かれていたので、「うまいことやったな」と、皆にからかわれてしまった。

 結局、セミファイナルは3−9、3位決定戦は4−9で敗退。インドネシア人のプレーヤーには、私のようなハードヒッターは少ないが、スライスやカットが多いので、バリに来てから硬式テニスを始めた私には、まだ軟式テニスの癖が抜けず、負ける気がしないのに負けてしまうということが多いようだ。

 さて最終日、会場のインドネシア体育協会テニスコートに決勝戦を見に行ったところ、「第4位まで表彰されるんだぞ」と、準決勝を争った“クトゥットゥ”に言われた。サンダル履きで表彰の列の後ろに並んだ。第3位までには、トロフィーが渡される。私に渡されたのは、薄っぺらな封筒が2つ。糊付けはしていない。中をのぞいてみたら、それぞれ6万5千円、じゃなくてルピアが入っていた。日本円に換算して、約800円也。

 中学校から軟式テニスを始めて、高校時代には2度インターハイ出場した。それなりに長いテニス人生ではあるが、賞金を獲得したのは、初めての経験である。インドネシアでは、アマチュアにも賞金が出るのだ。ちなみにダブルスの優勝賞金は、100万ルピアであった。

 私は昨年から、この『バリ・ポスト杯』に出場しているのだが、不戦勝以外にまだ一度も勝利を収めていない。農林省に勤務する“クトゥットゥ”が、彼の所属する「フランボヤン(火炎樹)」という、テニスクラブに誘ってくれた。練習日は、月・水・金の週3回。午後3時から6時までで、一ヶ月の会費は3万ルピア(400円弱)である。

 このクラブのメンバーは、25名ほど。結構レベルが揃っていて、試合をしていると面白い。3日前の練習日、「ポカリを賭けよう」と言われたので応じた。ダブルスゲームだから、ポカリ2缶である。それなりに緊迫したゲームになったが、9−5で競り勝って、賞品をせしめた。賭けテニスというのも始めての経験だ。

 従来からやっている火曜日の午後と、金曜日の早朝テニスがあるので、いまは一週間に5回テニスをやっていることになる。テニスコートは、ほとんどがコンクリート製である。毎朝目覚めると、アキレス腱が硬くなっていて、痛い。

 なお、毎年9月には女子プロの『ウィスミラック・トーナメント』がバリ島で開催され、日本からも“小畑さおり”などが参加する。(2004.7.22)



2004年7月16日


ジャヤギリ日記 (その12)

「バリに男がやって来た」

 わが家の窮状を見かねたのだろうか、久しぶりに泊り客がやって来た。
 6月17日にもと警視庁勤務のTさん(60歳)。1ヶ月の滞在予定。24日に、フリーの編集者のFさん(67歳)。Fさんは、我が家に5泊したあとクタの安ホテルに移動。現在はウブドに泊まっているらしい。25日にSご夫妻(50代)。Sさんはスラバヤの日系企業で工場長をしている方。奥様が日本からいらっしゃって、わが家に2泊。
 いずれもリピーターで、わが家にとってはありがたいお客様である。私は18.5キロの大マグロを買ってきて、2時間ほどかけてさばいた。今回は、甘イカの刺し身が特に美味だった。

バリに男が やって来た
赤いスペダを こいでたら
突然スコール 降ってきて
ワルンで2時間 雨やどり

日曜日には パサール
月曜日に 米をとぎ
火曜の日には めし炊いて
天ぷら揚げて 火傷した

昔は硬い サツなれど
バリの風が 吹き抜けて
いつのまにか 柔になり
終わった国を 捨てようかな

 Tさんは勤続40年、定年まで2年を残して、潔く警視庁を去った九州男児である。
 一昨年バリにやって来て、バリでの気ままな一年間を過ごしている間に、私と知り合った。いつも赤いママチャリに乗って、混雑するバリの街を飄々と走りぬけていた。デンパサールからヌサドゥアまで2時間半もかけて出かけて行ったこともあるというから、恐れ入る。車でも40分近くかかる距離である。
 3ヶ月ほどわが家のアパートの店子になったこともあるTさんは、カラオケやカフェで働いているアパートの若い住民にも人気があったようで、ブロークンなインドネシア語でたわいない会話を楽しんでいたらしい。
 自転車でサヌールの街を散歩していたら、「ハーイ、ミスターT、イマカラ、ヤルー?」と女の子に声をかけられたそうで、何をヤルのか私はあえて尋ねなかったが、何か楽しいことであったようだ。
 昼下がりになると、Tさんはアパートからわが家まで20分ほどかけてよく遊びに来た。プールで泳いだあと寝転びながら文庫本を読んで、手土産のビールを一緒に飲んで、といった感じで午後のひと時を過ごすのである。
 実はTさんのように不意に訪れるお客が、私は好きなのである。ふだんは一日中ヒマだから無意識に変化や刺激を求めているせいかもしれない。
 「いま空港に着いたよ。2、3週間泊めてもらう予定だから、ちょっと迎えに来てよ。」などという電話が突然かかってきたら、ものすごくうれしくなってしまうだろうなぁ、と思ったりする。
さて、Tさんの赤いママチャリは、Tさんが日本に帰るときわが家に置いて行ったので、今回もその自転車に乗ってあちこち出かけている。空港に出迎えた時は、ふくよかに太っていて驚いたのだったが、バリ滞在3週間が過ぎた今は、2年前の引き締まった身体に戻りつつあるようだ。バリ島ジャパンクラブの忘年間会でベストドレッサー賞に輝いた、剣道五段の熟年である。バリの風が合うタイプなのだろう。
 Tさんは、一年間バリに滞在したあとで、一度日本にもどり、ヨーロッパ諸国を北欧から南欧まで21カ国の旅したという。期間は6ヶ月、費用は約150万円。リュックサックを背負い、ユーレイルパスを使いまくって、バックパッカーに近い旅だったらしい。夜行列車で盗難にあい、いくらか日程を繰り上げて帰国したそうだが、普通の人にはあまり経験できない旅であったことは容易に想像できそうである。
 私などは外国に住んでいるので、考えようによってはいつも旅をしているようなものだが、ビザの書き換えのために半年に一度パース(豪州)に行くぐらいが関の山で、そのような話を聞くとうらやましくなる。
 とはいえ、他人の家庭の事情というものは良くわからないもので、まだこれから何年か働かなくてはならない、というのが目下Tさんの抱えている悩みのようである。
「終わった国」日本を捨てようかどうか、Tさんの心はまだゆれている。(2004.7.8)
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スペダ・・・・・・自転車
ワルン・・・・・・雑貨屋を兼ねた喫茶店
パサール・・・・・市場
火傷の跡はまだ残っている



2004年6月29日


ジャヤギリ日記 (その11)

「カキ・リマ」


 インドネシア・バリ島は、行商人の島である。中でも「カキ・リマ」という手押し車を押して、町や村の路地を歩く行商人には、いたるところで出くわす。

 インドネシア語で、「カキ」は足「リマ」は 5。つまり 「カキ・リマ」は、5本足 と言うことになる。手押し車の両輪、その後ろ(中央)に小さな車輪がついている。これは車を止めたときに前後に傾かない工夫である。それを押して歩く人間の2本足。大小3輪と2本足であわせて5本、「カキ・リマ」 と呼ばれる所以である。


 実に多彩な 「カキ・リマ」 が通る。もっとも多いのが、「BAKSO」売り。これを「バクソ」と読んではいけない。「バッソ」と発音する。子音の K は、のどの奥のほうでは意識はするが実際には発音しない。「バッソ」というのは、小麦粉で練った、ビーフン入り肉団子のスープ。値段は、MANGKOK(マンコッ・お椀)一杯2000ルピア(25円)程度。唐辛子をたっぷり入れた熱いバッソを食べると、すぐに汗が噴出してくる。

 「カキ・リマ」の種類は実に多く、思いつくままにあげると、「サテ」と呼ばれる串焼き屋。これは日本の焼き鳥であるが、牛肉、やぎ肉、鶏肉、ときには亀肉と種類は多彩。「ミー」と呼ばれるラーメン屋、「ブブール(おかゆ売り)」。「ルジャック(果物サラダ売り)」、定番「ナシゴレン(焼きメシ屋)」、「焼きとうもろこし売り」、などなど。飲み物部門では、これも有名な「エス・クラパ・ムダ(椰子の実ジュース)」や「エス・チェンドル」と呼ばれる“トコロテン・あんみつ風ジュース”、「アイスクリーム売り」。


 行商人は、胃袋に納まるものだけを扱うわけではない。自転車で移動する者たちも多い。塵取り・バケツ・ホウキ・タワシ・ハケなどを自転車に満載した雑貨売り、同じくプラスチックのお面や人形・自動車などを売るおもちゃ屋、スダレ売り。自転車を持たない零細商人は、それらの品物を担いで歩き回る。サンダルやTシャツをバッグに詰め、腕にかけ、親からもらった二本足で商売している者もいる。他に、「ゆで落花生売り「、「猿回し芸人」。

 「猿回しの芸人」は、太鼓を叩きながら路地裏を回る。小さな手押し車や梯子などの小道具を背負って、猿と共にやって来る。一度だけ見たことがあるが、声もかけないのにいつのまにか近所の子供たちが集まってきたのには驚いた。


 このほか珍しいところでは、「床屋」。商売道具一式を担いでやってくる。声がかかると、庭先にその家のイスを持ち出して仕事を始める。私も一度だけかかったことがあるが、それ以降見たことはない。街中いたる所に床屋やビューティーサロンがあるので、あまりお客がつかないのであろう。

 私がよく利用するのは、「靴の修理屋」。テニスシューズの親指付近が擦れて破れてしまうので、新しいゴム皮を縫い付けてもらったりする。ゴルフシューズの底が抜けてしまったものは、あまりひどい状態だったので、捨ててしまおうかと思ったが、聞くと、『直せる』というので頼んだら、新しい靴底にそっくり換えて新品同様に仕上がったのにはびっくりした。


 藤沢周平などの小説を読むと、江戸のころ、『研ぎ師』という商売があって大店の台所をお得意様にしていた、と言う話が出てきたりするが、バリ島で研ぎ師に出会ったことはない。インドネシアの厨房の道具類はまことに貧弱で、ろくな包丁がない。だから、自前でいい加減に研いでしまえば、事足りるのだろう。あるいは昔の日本人なら誰でも出来たように、刃物を研ぐことなどは子供の頃から自然に身に付けた技の一つなのであろう。明日、錆付いてしまったカンナの歯を、久しぶりに研いで見ようと思う。(2004. 5. 5)   



2004年6月15日


ジャヤギリ日記 (その10)

”平良さん永眠”



2004年6月5日、午後10時15分、平良定三さん永眠。サンラ国立病院サンジワニ病棟8号室。享年84歳。

  6月5日、夜10時、平良さんの末娘Mさんから電話があった。危篤だという。入院先の病院に急いだ。サンラ国立病院までは、私の家から車で10分ほどである。途中で携帯電話が鳴り、息を引きとったと言う連絡が入った。
  病室に着くと、すでに点滴や酸素吸入器などがはずされ、看護婦2人が平良さんの身体を清めているところだった。奥さんは、泣き崩れて、娘さんたちに抱きかかえられるように臥せっている。2日前にお見舞いに行った時は、意識はほとんどなかったが、「平良さん、タイラさん!」という私の呼びかけに、いくらか反応があったような気がした。
  いくぶん口をあけ、目をつぶっていた平良さんは、深い眠りに就いているようだった。手を握ったらまだ十分暖かかった。

  6月9日、沐浴の儀式。
  平良さんのご遺体を、家族や親戚一同で洗い清める。まず奥さんが頭に水をかけ、シャンプーを使って頭髪を洗う。小さな櫛で薄くなった髪を整える。ドライアイスに包まれていたご遺体は、硬直していて痛々しかった。身体にかけられた水は、きっと温かく感じられただろう。
  僧侶の指示で、バリヒンドゥーの儀式にのっとり、さまざまな香料や木の実などが振りかけられ、身体のあちこちに添えられる。末娘のMさんが、泣き腫らした目で惜しげもなく聖水をふりかける。

  6月10日、葬儀。
  家族や友人知人、集落の人たち、インドネシア独立戦争をともに戦った老兵たち、陸軍の儀丈隊が参列する。老兵たちはいずれも退役軍人の制服に身を固めていた。女性が2人、歳をとってもみな凛々しい顔をしている。
  音楽隊のラッパが長く鳴り響く中、紅白のインドネシア共和国の国旗に覆われた棺が家を後にする。大通りまではインドネシア陸軍の若い兵士8名が、厳かに担いでいく。大通りに出て棺は御輿に移され、集落の若者たち20人ほどが青竹で編んだ御輿を担ぐ。御輿の両サイドには、平良さんの2人の孫が乗っている。一人は極楽鳥の剥製を片手に持ち、もう一人はお米を沿道に振りまいている。
  火葬場までは約1キロ。T字路に出た御輿が暴れ御輿のように3回4回と激しく回りだす。御輿の前後に大勢の参列者が続いているので、火葬場までの交通は、一時ストップの状態になる。バリの人たちは慣れているから、行列が過ぎるのをただただじっと待っている。

  火葬場に到着。
  インドネシア独立戦争の英雄である平良さんの葬儀である。
  棺の右手に自動小銃を捧げ持つ若い兵士と軍楽隊が並ぶ。左手には共に独立戦争を戦った老兵たちが60人ほど姿勢を正している。現役の上級将校が、平良さんの経歴や功績を読み上げる。日本流の長い弔辞などはなく、さすがにてきぱきしたものである。
  うら若い女性がマイクの前に立ち唄い始める。「Gugur Bunga」(花びらが散ってゆく)と言う歌。もの悲しくも美しいメロディーだ。途中から老兵たちが低い声で唱和し始める。胸がつまり、目頭が熱くなる。


  平良さんの棺は、直径20センチほどのバナナの木を長方形に組んだ枠の上に乗っている。バナナの木は、ほとんどが水分なので、その枠の中で遺体を焼くのである。棺の両側に8名の若い兵士が整列した。小銃の先に突撃用の剣を装着する。小銃の筒が斜め上方に構えられる。
  バリ島の澄みわたった青空に、8発の弔砲が鳴り響いた。空には凧が舞っている。

  Jさんと私は、火葬の火が入れられてから一時間ほどして火葬場を後にした。バリの火葬は、3時間ほどかかる。平良さんの遺骨はその日のうちにサヌールの海岸から船で沖に出て、バリの海に散骨される。何時の日にか赤道を越えて、生まれ故郷の宮古島にたどり着くこともあるだろう。

バリに男が 住んでいた
宮古の島に 生をうけ
赤紙くらって スマトラへ
忠孝仁義の 歩兵隊

マラリア・デング 何のその
戦いやんで 日が暮れて
椰子の木陰で まどろめば
皇居の天ちゃん 忍ばるる

玉音放送 クソ喰らえ
八紘一宇は まぼろしか
独立戦に 加わりし
ブレレン平良 ここにあり

平良さんがまだお元気で、奥様と一緒に我が家に遊びに来られた時、この詩を歌ってあげたら、殊のほか喜んでくださった。書いたものを欲しいと言うので、プリンターで印刷してあげたことが思い出される。(2004年6月14日 写真撮影Jさん)



2004年6月7日


ジャヤギリ日記 (その9)

「締め切り」


刻々と締め切りの時間が、近づいている。束縛のほとんどない、のほほんとした日々を送っている私にとっては、辛いものがある。いっそのこと約束など破ってしまおうか、などと考えたりもする。

 なんの締め切りか、だって?
 いま書いているこの雑文「ジャヤギリ日記」の締め切りである。東京は神楽坂で、「神楽坂まちの手帖」という雑誌を主宰している、平松さんから依頼されたものである。私の雑文は、そのメールマガジン版に掲載されている。締め切りは、今夜。 いや、明日の午前中までなら、心やさしい平松さんは、待ってくれるかもしれない。

 PCのモニターが壊れてしまって、先週は休載となった。三、四日で直ると思っていたのだが、結局2週間経っても直らず、仕方がないので新品に取り替えた。約1万5千円の出費。1ヶ月8万円ほどで生活している我が家では、とんでもない大金である。新しく買ったのはLG社製(韓国)。念のために聞いたら、これは修理が効くそうだ。以前のものは、SXXY製である。たった4年でぶっ壊れた。サービスセンターも置いていないなら、売りに出すんじゃない!と、言いたくなる。

 原稿は昨夜のうちに、書き上げる予定だった。コンピュータの電源を入れたら、つい将棋の画面を出してしまい、2時間ほどやってしまった。家内に「子供とお風呂に入ってちょうだい」と怒鳴られて、しぶしぶやめて風呂に入った。もう一度PCの電源を入れるのが面倒になって、ベッドに寝転がった。
それでも息子が眠る前に、小学1年生の国語の教科書を読んであげた。「たぬきの糸車」や「スイミー」などなど。9時にNHKの「ニュース10」を見た。佐世保の小学6年生の殺傷事件、三菱のリコール隠しをみせられて、またか、といやな気分になった。私が興味あるのは、スポーツニュースとイラク情勢だけだ。アメリカ兵がやられると、気分がいい。 Jさんは、「自衛隊が早くやられればいい」と、言っている。私も口には出さないが、心の中ではそう思っている。


 眠る前に、「水滸伝」(北方謙三・集英社)を読む。いま私の手元には、12巻まであるのだが、文章もよいし面白くて面白くて、いまは3回目である。ふた月ほどの間に、同じ本を3回も続けて読む、というのは初めてのような気がする。とにかく他の本を手にとっても読む気がしないのだ。
 明け方、寒くて目を覚ました。毛布をかぶりなおし、またひとしきり「水滸伝」を読む。早朝テニスに行く予定だったが、面倒になって取り止めた。マグロの刺し身を頼まれていたので市場に行こうかとも思ったが、朝のコーヒーを飲んでいるうちにその気も失せた。
 遅い朝食をとって、また本を読み始める。午前中に第2巻を読み終わった。息抜きに菜園の畝たてをし、育ってきたナスの苗を移植した。ついでに菜っ葉の種も蒔いた。しけモクも吸い尽くしたので、お手伝いのイサにタバコを1箱買ってきてもらう。多少汗をかいたのでプールに入ろうかと思ったが、水が冷たそうなので取り止めた。昨日、ごみ掃除の為に入ったのだが、あまりの冷たさに10分ほどで切り上げた。シャワーを浴びると井戸水のほうが暖かい。バリ島はいま、冬なのだ。少なくとも日本より過ごしやすい季節ではある。最低気温は22度ぐらいだろうか。
 「水滸伝」第3巻を読み始める。読みながら原稿の締め切りのことが頭をよぎる。いっぱしの物書きになった気分で、多少こころの葛藤を楽しんだりもする。もう午後の4時を回っているようだ、あと一節読み終わったら、きっぱりとコンピュータの前に座ろう、などと考える。数日前から題名とか内容はだいたい頭の中には、出来上がってはいるのだ。あとは、PCの前に座って、コーヒーを頼んで、将棋やゲームには目をくれず、「ワード」を開くだけだ。
 息子は、DVDで「タイタニック」を見ているようだが、妻とお手伝いは、掃き掃除や夕食の準備を始めたようだ。私だけが怠惰でいるわけにも行くまい。


・・・というわけで、やっとキーボードを叩き始めた。次回はもう少しまじめに取り組もう。(2004. 6. 3)



2004年6月1日





   バリの男六代記 (その6)
《80代の男の歌》


バリに男が 住んでいた
宮古の島に 生をうけ
赤紙くらって スマトラへ
忠孝仁義の 歩兵隊

マラリア・デング 何のその
戦いやんで 日が暮れて
椰子の木陰で まどろめば
皇居の天ちゃん 忍ばるる

玉音放送 クソ喰らえ
八紘一宇は まぼろしか
独立戦に 加わりし
ブレレン平良 ここにあり




ジャヤギリ日記 (その8)

”やはり沖縄、さすが宮古”

  平良定三さん(84歳)を読んだ歌。インドネシア名、“ニョマン・ブレレン・タイラ”。終戦後、日本に帰還することを拒否して、オランダとの独立戦争に参加し、4年間を戦い抜いてインドネシアの独立英雄の称号を持つ武士(もののふ)である。
  最近の平良さんは病気がちで、入退院を繰り返していた。日ごろお付き合いをしているのは私ぐらいのもので、バリに住む若い人たちの間では、インドネシアの独立戦争に参加した日本兵が数多く存在したことすら、あまり知られていないようである。

  9月はじめ、久しぶりで平良さんの家に行ってみると、平良さんが故郷の宮古島に行きたがっているのだと、奥さんが困惑したように話していた。もう一度どうしてもお墓参りがしたいのだという。そうこうしているうちに、平良さんの強い願いを実現すべく事が動き出し、私は宮古島の親戚の家に電話したり、メールをやり取りしたりして、受け入れ方をお願いした。
  11月の予定が10月になり、3人の予定が10人に膨れ上がって宮古の親戚の人たちもだいぶ戸惑ったようであった。間に立った私も困ってしまったが、心のどこかに 「何とかなるさ」 といつものなかば無責任で楽観的な気持があった。

  今から35年前、私は大学1年の夏休みに沖縄八重山を1ヶ月かけて旅をした。まだ復帰前の沖縄は、パスポートを取り予防注射を打ちドルを用意して行かなければならない異国の地だった。重いリックサックを担いで、真夏の暑い大通りを歩いていると、突然車が止まって、「学生さん、どこに行くね?」と声をかけられ、何度も何度も車に乗せてもらった。自分で親指をつき出したわけでもないのに…。学校の朝礼台の下で眠ったりもしたが、宿直室や保健室、はたまた校長室にまで泊めてもらったりした。
  はるかなる青春のときからずいぶん時が流れたとはいえ、私の心の片隅には沖縄人(びと)の温かい心がひっそりと息づいていた。

  10月10日、私を含め総勢11名が宮古に向けて旅立った。バリの平良家は、平良さん夫婦、その長男夫婦、次男とその息子(平良さんの孫)、長女、次女、三女、四女。私は平良家で旅費と宿泊費を負担してくれるなら宮古行きにお供しましょうと言うことで、添乗員のような役目で参加することになった。

  その日は、役所に勤める長男のS氏と早朝テニスをし、飛行機(チャイナエア)の出発が5時間遅れたので、ゆっくり昼寝をしてから飛行場に向かった。深夜12時台北着。バスで5分ほどのホテル泊。翌朝8時台北発、10時30分那覇着。那覇のツーリストカウンターで宮古行きのチケットとホテルのクーポンを受け取り、那覇発15時、宮古着16時。

  宮古では出迎えがあるとのメールを受け取っていたので不安はなかったが、歓迎の横断幕を手にした大勢の親戚の人たちに囲まれ涙を浮かべて抱き合う様子に、多少残っていた懸念は一気に吹き飛んでしまった。
  出迎えの車に分乗して平良さんのお兄さんF氏(長男、88歳)宅へ。老人の一人住まいと聞けばわびしさを思い浮かべるが、矍鑠(かくしゃく)として表情にも声にも力強い響きがあり、私も圧倒されるほどの方だった。

  宮古での日程は4泊5日。日中は墓参と島内めぐり。1500メートルもの池間大橋を渡って池間島に行ったり、中学校の校長をしているTさん(Fさんの長男)の学校に行って、生徒たちと国際交流の時を持ったりした。
  平良さんは足が弱っているので移動にはバリから持っていった車椅子を使うことが多かったが、白砂の広がる大浦の浜辺に降り立ってズボンの裾をまくり、故郷の海に長いあいだ足を浸していた。

  夜は親戚をはじめずっと前にバリ島旅行に来られた先生方のグループによる歓迎会など、毎晩宴会の連続。泡盛を酌み交わし、歌い踊り、三線(サンシン)の演奏あり…。宮古の人たちの歌好き踊り好きは有名だとしても、バリ人だって負けてはいない。疲れ気味の平良さんも泡盛を少し口にして、いくぶん顔色がよくなったようだった。私は、宮古名物「オトーリ」(泡盛を一つのグラスに注いで、飲み干しながら回していく)に何度も付き合わされて、ふと宴席を見回すと、誰がバリの平良家なのか、どちらが宮古の平良家なのか、判然と区別がつかないほどであった。げに、血のつながりとはすごいものであります。

  それにしても、平良さんの長男C氏が挨拶に立って、「みなさん、バリにも血のつながった兄弟(姉妹)がいることを、忘れないでください。」と言う部分を通訳したときには、不覚にもなかなか声が出てこなくて往生した。

  「やはり沖縄、さすが宮古びと」であった。一ヶ月前、宮古島には風速78メートルの超大型台風が襲ったばかりである。木々が倒れ、風力発電のプロペラが根元からぽっきりと折れ、建物の被害も半端ではなかったようである。が、ウチナンチューの心意気、暖かい心は、子々孫々変わることなく引き継がれているようだ。

  宮古を後にして那覇泊。バリの平良家の人たちは、「さあ、買い物だ!」と意気込んでモノレールに乗って那覇の中心街へ。X越やダXXーに足を運んだが、あまりの生活格差にがっくりとうなだれて戻ってきた。「それじゃ、切り札 百円ショップ。」ここでは札びらを切り、小銭を勘定しつつ、買い物を大いに楽しんだようであった。

  私は、沖縄の友人U氏に誘われ、大いに飲み、歌い、那覇の一夜を楽しんだ。途中からKちゃん(私の家に40日余り居候していた青年)が合流した。つまみに出た “豆腐よう” がすこぶる美味かった。旅の期間中、「日本語が上手ですね」 と何度も驚かれた。 「日本語は話せますか」 とチェックインカウンターで言われたときには多少ムッとしたが、しかたないので 「少しはね」 とこたえておいた。
(2003年10月23日)



2004年5月11日


バリの男六代記 (その4)


《70代の男の歌》



バリに男が 住んでいた
闘鶏場を はしごして
海だ山だと 張りまくる
東にジャワの 娘あり

勝負は時の 運なれど
負ければむなし バリの風
西にはクタの 十七歳
本妻若後家 家出妻

夕餉の後に バイアグラ
熱き血潮を たぎらせて
褐色の肌 まさぐれば
君死にたもう ことなかれ

---------------------------------------------------------------------------------- 海だ山だ・・・・・・・・・・・・・・・相撲の東西のようなもので、闘鶏では、海側と山側に分かれる。
本妻若後家 家出妻・・・・70代のM氏には30歳前半のジャワ出身の妻がいる。その他に2人程
                  女を囲っているとのうわさがある。羨ましい限りである。
バイアグラ・・・・・・・・・・・・・デンパサールの高級スーパーで売っている。アメリカ製なので、日本人
                  は、半分に分割して服用するとよいそうである。



2004年4月21日



ジャヤギリ日記 (その7)

「ブタの散歩」


2004年4月19日
夕食の後、書斎でコンピュータ相手に将棋を指していたら、居間の方でなにやら揉めている様子。あと一歩で投了の局面になっていたので、知らん顔をしてマウスを動かしつづけた。2回待ったをしてやっとコンピュータをやっつけて、「どうしたんだ」 と居間に出向いたら、息子が突然泣き出した。

見ると、以前知り合いからもらった双眼鏡が二つに分かれて、つまり壊れていた。息子は、泣きじゃくりながら言い訳めいたことを言っている。”しゃらくさい奴だ”とも思ったが、もうすぐ寝る時間でもあるので、こう言ってやった。
「なに泣いてんだ。モノなんてものは、いつかは壊れるもんだ。まあ、明日できたら直してみよう。」
息子は、私にひどく怒られるものとばかり思っていたらしい。

飽食の国に長い間住んでいた私は、花瓶やお皿を落として壊してしまったときなど、ちょっとうれしくなったものだ。 「これで少し物が減った」 と。靴やブレザーを新調するときは、古いやつを着て行って、デパートの売り場に 「これ、捨てといて。」 とか言い、その場で新しいものを着用して置いて来てしまう。ちょっとかっこよい感じで、気分がスッキリする。

インドネシア人は、非常にモノを大切にする。そのことについては私も同じである。鼻緒がちぎれてしまったサンダルなどは自分で修理して履いている。だが、壊れてしまったものは仕方がない。
もっともあの双眼鏡は、私より息子のほうがずっと大切にして愛用していたものだから、彼の気持ちもわからないではない。

寝る前に、「お父さんりんごを食べる?」 と息子が言ってきた。 「うん、食べたい」 というと、お手伝いに皮を剥いてもらって、小皿に入れて持ってきた。叱られなかったお礼の気持らしい。私は彼の気持を素直に受け取ることにした。

息子が学校で友だちから1000ルピアを巻き上げた、という話を耳にした。
算数の時間、友だちが 「ノートを見せろ。」 といったので、「千ルピアくれるなら見せてやる。」 と言って、せしめたそうだ。わたしは、「明日学校に行ったら返しておきなさい。」 と言った。
「もう使っちゃった。」 と息子が言う。妻が脇から口を出して、「使っちゃったのなら、しょうがないわ。この次からそういうことはやめなさい。」 と言う。「だめだ、明日必ず返して来い。」 と私。

担任の先生は、授業の他に副業を持っていて、クルプック(インドネシア風せんべい)を教室で生徒に売るのだそうだ。妻の叔母さん(小学校の教師)は、自宅でアイスキャンディを作っては生徒たちに売っていた。息子の担任も、家でせっせとせんべい作りに励んでいるのであろう。
「コマン先生が家でクルプックを揚げ、13袋学校に持ってきました。昨日5袋を生徒に売り、今日は6袋売りました。残りは何袋でしょう?」 などという算数の問題が出来そうだ。
次の日、「ちゃんと返したか」 と息子に聞いたら、「返したよ」 と平然と答えた。本当かどうか怪しいもんだ、と思ったが、それ以上追求すべきことでもないか、と思ってそれまでにした。



先月、「ノニ」 の取材に付き合ってウブドの田舎道を走っていたら、ブタの散歩に出くわした。中年の村男が、ブタの首(ブタには首があるのだろうか)に紐をつけて、テクテク歩いてくるのだ。私がブタの散歩に出くわしたのはこれで3度目である。何かほのぼのとした情景で、幸運が舞い込んできそうな気がしてくる。

ブタはあまり余所見もせず、わりに行儀よく道の脇を歩いてくる。よく思い出せないが、ブタが先で紐を握っている男が後からついて来たようだ。
取材スタッフに、「これはあまり見かけないことだから、ビデオに収めたらどうか」 と言って、私も車から降りた。近づいてきた男に、「ブタと散歩かい?」 と聞いたら、「こいつは結婚してきたんだ」 と言う返事が返ってきた。どうやら種付けの帰り道らしい。
どおりでヤッコさん、満ち足りた顔をしていたはずだ。



『インドネシアで ”テレマカシイ(TERIMA KASIH)、つまり 「ありがとう」 という言葉ですが、”テレマ”と”カシイ”は、”ギブ・アンド・テイク” という意味です。』

(講談社文庫、永 六輔著 「壁に耳あり」)

誰が彼(永 六輔氏)に喋ったことなのか知らないが、悪意があったとは思えないので、あまりインドネシア語を知らない人らしい、ということは言える。
本当は、TERIMA「受け取る」 KASIH「愛」 である。確かに KASIH には、もう一つの 「与える」 という意味はある。しかし、私の持っている2つの辞書には、どちらも 「愛」 の意味の項目の方に 「ありがとう TERIMA KASIH」 の例文が載っている。だから正しい意味は、「(あなたの)愛を受け取りました。ありがとう。」 と言うことになる。

大学の大先輩でもあるし、私は彼の言ったり書いたりしたものが好きであるが、それだけにこのような一文が挿入されていたことが残念である。(どなたか、彼と親しい方がいらっしゃったら、そっと指摘していただきたいと思っている。)



2004年4月15日


バリの男六代記 (その3)


《60代の男の歌》


バリに男が 住んでいた
万歩の計を ぶら下げて
日課の朝の ウォーキング
火・金テニスに 水墨画

あした咲く花 何の花
バリの乙女を 愛でるごと
路地の草花 写し撮り
ホームページに はり付ける

ひるに二缶 よる二本
ビンタンビールを 空にして
仕上げはアラック 大吟醸
終わった国の 夢を見る

---------------------------------------------------------------------------------- テニス・・・・・・・ 毎週火曜と金曜日はテニスの日。会費はボールボーイがついて、月Rp10,000
          (140円)である。
アラック・・・・・・椰子から作った焼酎。J氏はバリ島をくまなく歩いて、この「大吟醸」に出会ったとい
          う。下戸の私でもうまいと思う逸品。どこで仕入れるのか私もまだ教えてもらえな
          い。我が家の冷蔵庫に一瓶だけ眠っている。
終わった国・・・日本のこと。「日本はすでに終わっている」というのが、J氏の持論。なお、J氏は実
          際には、『終わった国』の夢など見たことがないそうだが、言葉のおさまりを考えて、
          「夢を見る」としたものである。



2004年4月2日


ジャヤギリ日記 (その6)

ニュピ、静寂の日



2004年3月30日(水)
3月21日は、バリの新年「ニュピ」であった。もっともバリの新年にはいろいろあって、「ニュピ」はバリ・ヒンドゥーの新年である。イスラム教の新年「イドゥル・フィットリ」は、毎年断食明けの日になる。ほかに華人社会の春節、それと世界共通の1月1日元旦。「ニュピ」はサカ暦、「イドゥル・フィットリ」はイスラム暦で、ともに月の満ち欠けによっているので、毎年その日付が変わってくる。


さてその「ニュピ」であるが、この日バリ島内にいる人間は、外出を禁じられる。つまり、家や宿泊先のホテルから一歩も外に出ることができなくなる。当然のこととして、街中を走る車やバイクも路上から消え失せる。飛行機も飛ばない。5、6年前までは運行を止めたのは国内線だけだったが、今は国際線もストップする。強権を誇っていたスハルト体制が崩れたので、バリの独自性が強くなってきたと言うことらしい。

いつも騒々しい街は静寂に包まれる。時おり鶏の鳴き声と、犬の遠吠えが聞こえてくるだけである。だから、普段はテレビのボリュームを20ぐらいにしておくが、この日は12ぐらいでも十分聞き取れる。
本来は、火をおこしたり電気を使うことも禁じられている。ただ現実的には、家の中でテレビを見たり料理したりしても、煙など出さない限り他人には窺い知れぬことであるから、みなひっそりと料理をつくりテレビを見ている。ヒンドゥー教徒は、この日一日は断食をする慣わしになっているそうであるが、おおらかな宗教なので、まじめに断食をする人はほとんどいないようだ。

「ニュピ」の前々日になると、村人たちは各村の守護神を伴って海岸を目指す。きらびやかなその行列は、延々と続き圧巻である。前日の夜は「オゴオゴ」と呼ばれる巨大な張子の怪獣たちが、若者たちに担がれて街中を練り歩く。悪魔をはらって、清浄な新年を迎えるために行われるこの行事は、バリ島に滞在している観光客の目も大いに楽しませてくれる。残念なことに、今年は総選挙の年なので不測の事態を恐れた当局のお達しによって、中止になってしまった。。日本の暴れ御輿さながらの衝突がおきて、喧嘩沙汰になる場合があるのだ。

私は午前中、庭の草むしりや菜園の畝立てなどをしていた。唐ぐわが小石に当たってちょっと大きな音が出たりすると、妻にたしなめられたりする。汗をかいたので息子とプールに入る。息子は、はしゃぎすぎて母親に叱られる。プールから出て昼飯を食べると、心地よい眠気が襲ってくる。 J さんが貸してくれた「文藝春秋」を寝転びながら読んでいるうちに、いつのまにか午睡タイムとなる。1時間半ほど惰眠をむさぼって、ぼんやりした頭を振りながら北のベランダの椅子に座り、メイドにコーヒーを頼む。泊り客の N さんと、とり止めのない話をしながら、かすかに秋の気配が感じられるバリの風に吹かれていると、「池の魚にえさをやってちょうだい」、「オクラとナスを採ってちょうだい」などと家人に言いつけられる。

「ニュピ」の日も暮れはじめる6時半ごろ、人々は早めに入浴を済ませ、早い夕食をとる。わが家でも室内が薄暗くなってきたので、まだ多少明るさが残る北のベランダで夕ご飯を食べた。

あとはもう何もすることがない。暗くなると灯りが外に漏れるから、電気をつけるわけにはいかない。集落ごとに見回り役がいて、あからさまに電灯をつけたりしていると、注意されるのだ。異邦人の私は特に、お世話になっているその地の文化は尊重しなければならない。以前はテレビを毛布で覆い、光があまり漏れないようにして見ていたこともあったが、めんどうだから早々と寝てしまった。

ところで、「ニュピ」の日は新月の前日にあたるので、晴れていれば、夜にはすばらしい星空を仰ぎ見ることが出来る。今年は残念ながら曇っていたのでかなわなかったが、昼寝をたっぷりした上に早く寝てしまったので、朝の3時に目覚めてしまった。窓越しにぼんやりと、しかしなぜか大きくさそり座が見えた。

バリ・ヒンドゥーの新年「ニュピ」の文化は、世界中に広めるべきではないか、といつも思う。ニューヨークもバグダッドも東京もカブールも、たった一日だけあらゆるエネルギーをストップさせるのだ。ブッシュはキャンプ・デービットで、フセインは監獄で、小泉は総理官邸で、オサマは洞窟で、静かに一日を過ごすのだ。
夜になったら、みんな外に出て満天の星空を見上げるがいい。


バリの男の詩(50代)

バリに男が 住んでいた
寝床で大きく 伸びをして
何をしようか 考えた
マグロを買い来て 捌こうか

北のベランダ 籐のいす
どっかり腰を 落としこみ
何をしようか 考えた
アヤムカンポン 絞めようか

   菜っ葉の種でも 蒔こうかな
ガラムのしけモク くゆらして
あれこれあれこれ 考えて
今日も一日 過ぎてゆく

---------------------------------------------------------------------------------- マグロ.....................ときどきジンバランの魚市場にマグロを買いに行く。
                          10キロのマグロ1匹が12万ルピア(約1,500円)である。
アヤム(にわとり)、カンポン(村)... いわゆる地鶏のこと。
ガラム.....................香料が入ったインドネシアのタバコ



2004年3月26日


ジャヤギリ日記 (その5)

シューティング



2004年3月19日
川崎市に住むTさんから、メールがあった。
『 いま日本で話題になっている 「ノニ」 という健康食品の、プロモーションビデオを撮影したい人がいるので、そちらで世話をしてくれないだろうか』 ということだった。暇を持て余している私は、さっそく “OK” の返事を出した。


『ノニの木』 は、わが家にも1本植わっていて、現在20個ほど実をつけている。植えてからまだ一年ほどしか経っていないが、非常に成長がはやい木である。インターネットで検索して見ると、原産地はインドネシアとなっていた。各種のミネラルや、ビタミンを数多く含むので、「ハーブの女王」 と呼ばれているそうだ。知人に尋ねてみたところ、インドネシア語では “ムンクドゥ”、バリ語では “ティバ” と言って、昔はよく病気の治療に利用されていたそうだ。難点は、熟した果実がチーズの腐ったようなひどい匂いを発することで、いつのまにか人々に敬遠されてしまったようである。

3月13日朝8時、取材スタッフの I さんとMさんをクタのホテルに迎えに行った。バリ島の風景も織り交ぜながらノニの取材をしたい、と言うことだったので、バリヒンドゥーのお寺を撮ってから、バロンダンスの撮影に行った。主な場面をビデオに収め、我が家のノニとご対面。しかし幼木で迫力に欠けるとのことで、近所の道端に生えている木を撮影に行った。こちらは実もたわわになっており、暑い中30分ばかりかけてビデオに収めた。家に戻る途中で、“ワルン(小さな雑貨屋)”の店先に 『ノニの木』 を見つけたので、そこのおかみさんに 「ノニの実」 をもぎ取るポーズをとってもらった。

わが家で昼食をとってから、ウブド近郊にあるライステラスを取材。あいにく雨が降ってきたが、田植えが済んだばかりの棚田は、青々としていてすばらしい光景だった。さらに足をのばしてキンタマーニ高原へ。ところが、霧が深くてバツール山も湖も見えない。しかたなく湖畔を見下ろすレストランでコーヒーを飲みながら一服。
「これじゃしょうがないですね。帰りましょうか。」と車に戻ろうとしたところ、にわかに風が吹いてきて眼下に湖が見えてきた。Mさんが急いで機材のセットをしていると、また霧に覆われ五里霧中。腕組みをして霧の中に立ち尽くしながら風を待ち、やっと50秒ほどのかすかな晴れ間をとらえて、キンタマーニ高原の撮影を終了した。

家に戻ると妻の両親が来ていて、「ノニのジュースや ”ルジャック” 」 を作っていた。
“ルジャック” と言うのは、広くインドネシア人に親しまれている果物の食べ方で、まだ熟していないパパイアやマンゴなどを、独特のタレをつけてサラダ風に食べるものである。私も試してみたが、まだ熟していない実を使うせいか、いやな匂いもなく、甘酸っぱいタレに良くあっているようであった。取材スタッフの I さんとMさんは、そうした光景を熱心にビデオに収めていた。

翌日は、ノニを栽培している農家の取材。クライアントのKさん、Tさんも同行した。バリ島の西部ジュンブラナ県プクタタン村へ。
バリ島で ”EM(有用微生物)“ の普及に尽力しているウィデダナ氏に紹介してもらったのだが、2時間半のドライブの後に着いたところは、なんと、バリ州政府の直営農場であった。辺鄙な農家を想像していた私たちは、幹部のイリヤナ氏を始め、農場スタッフの出迎えを受けて面食らってしまった。
 
400ヘクタールにも及ぶこの農場では、椰子の木・ゴムの木・チーク・バナナ・カカオ・コーヒー・丁子などを栽培している。イリヤナ氏の話では、ノニは試験的に千本ほど植えたところで、市場性があるなら、いくらでも栽培面積は増やせる、ということだった。事務所から車で10分ほど走り、途中から歩いて「ノニの畑」 を見に行った。わが家と同じくまだ植えて間もない幼木だったが、結構実をつけていた。
「モモ栗3年柿8年、柚子の大バカ18年」 と言われるが、ノニはたったの8ヶ月で実をつけ、しかも一年中ずっと休みなく実を結ぶのだそうだ。大きな木になると、高さが十数メートルにもなると言うから、大変な働き者の木ではある。

撮影が終わって帰り道、農場スタッフの方が青い椰子の実をたくさん落としてくれ、山刀で器用に皮を剥ぎ、中に詰まっているジュースをご馳走してくれた。
「こんなおいしい椰子のジュースを飲んだのは初めて。」
と同行した妻が言ったほど、ほんのりと甘く渇いた喉にしみとおる味だった。ちょうど昼飯時になったので、お返しに農場のスタッフを近くのレストランに招待して、みんなでナシゴレンを食べた。

多少雨にたたられたが、取材完了。
デンパサールに戻ってみんなでマッサージに行った。1時間3万5千ルピア(約400円)、ローカルのお店である。スッキリ疲れをとって、わが家自慢の刺し身と味噌汁・旬の野菜の夕食をご馳走し、撮影スタッフの I さんとMさんを空港にお見送りした。

私は過分の謝礼をいただき、息子にずっとねだられていた自転車を買ってあげた。床屋に行って髪を短くカットし、隣のサロンで洗髪と頭のマッサージをしてもらった。床屋代が5千ルピア(60円)。マッサージ代は2万ルピア。サロンでは、チップを5千ルピアはずんだ。「金は天下の回りもの」である。


なお、このシューティングを紹介してくれたTさんは、交番勤務から始まって、警視庁に入り、警察学校で教鞭をとっていたお巡りさんであった。勤続40年。 「60歳までの20年間は、俺に自由な時間をくれ」 と奥さんに言って、一年間バリの風に身をまかせていた人である。私の妻が経営するアパートに半年ほど住んでいたこともあり、ずっと親しくさせていただいている。
《Tさんをモデルにした戯れ詩》 をご紹介する。


バリに男がやって来た
赤いスペダをこいでたら
突然スコール降ってきて
ワルンで2時間あまやどり

日曜日にはパサール
月曜日には米をとぎ
火曜の日には飯炊いて
天ぷら揚げて火傷した

昔は硬いサツなれど
バリの風が吹き抜けて
いつのまにか柔になり
終わった国を捨てよかな

---------------------------------------------------------------------------------- スペダ......自転車
パサール.... 市場
終わった国...日本



2004年3月15日


バリの男六代記 (その2)


《40代の男の歌》


バリに男が 住んでいた
シニサナ シニサナ ふらついて
気づいてみれば ふたむかし
光と陰は はやいもの

インドネシア語 ペラペラで
商売そこそこ してるけど
さいふの中身は ぺしゃんこさ
いつもカラカラ 笑ってる

最高裁まで 争って
逆転無罪に なったけど
媚やへつらい 好きじゃない
柳に風の 人生さ

---------------------------------------------------------------------------------- シニサナ シニサナ......インドネシア語。あちこちあちこちの意。
最高裁..............40代になったばかりのK氏は若かりしころ、高等裁判所まで有罪の
                   判決を受けて、留置場にも入っていたことがあるらしい。ところが、何
                   故か分からないが、最高裁では無罪となり自由の身になったそうだ。
                   何の悪さをしたのかは、作者の知るところではない。



2004年3月11日


ジャヤギリ日記 (その4)

コ  ブ  ラ 



2004年3月7日(日)
夕方6時20分。 バリの空も暮れはじめる時間である。

わが家の裏庭の片隅には、井戸が掘ってある。30メートルの地下から、地上10メートル程のところに設置してあるタンクにポンプで水を汲み上げ、各部屋に給水する仕組みになっている。ポンプを野ざらしにしておく訳にはいかないので、畳一枚ほどの広さの小屋を作って、スコップや鎌などを収納する物置も兼ねている。

菜園での一仕事を終えて、唐ぐわをしまおうと小屋の戸を開けた時、小屋の片隅にちらっと 蛇の尻尾が見えた。
「ははぁ〜ん、いやがったな」
とつぶやいて、お手伝いのイサに
「蛇だ、パイプを持ってこい!」
と怒鳴った。もちろん、インドネシア語で怒鳴ったのだ。

我が家に住みはじめて8年。その間7匹ほどの蛇が屋敷に侵入し、6匹を退治した。すこぶる好成績である。蛇をやっつけるのに最も適している道具は、塩化ビニール製のパイプである。直径が4センチほどで、長さ2メートル弱のものが最適だ。持って軽いし、切り口が薄いから蛇の胴体をきっちり押さえ込むことができるのだ。

イサが塩ビのパイプを持って駆けつけて来た。私はおもむろにパイプを受け取り、小屋の隅をつついてみた。するとはたして、奴はその姿を現した。私は、裂ぱくの気合もろとも(本当は無言だったが、)塩ビのパイプを突き下ろした。

イチローも青ざめるほどの高打率を保持している私の一撃が、的確に奴の下半身を捕らえ、奴は匍匐(ほふく)不能に陥ってしまった。体長は85センチほど。夕暮れが近かったので色は定かではなかったが、青大将にちょっと茶色をまぶしたような色だった。

蛇を殺した経験のある人なら誰でも知っていることであるが、奴らは胴体が半分ちぎれるほど抑えられたぐらいで、参ってしまうような柔(やわ)な身体はしていない。私が、パイプをもう1本持って来いとお手伝いに言っている間に、奴は上半身を30センチ近く持ち上げ、私に飛びかかろうとしてきた。丸みをおびていた鎌首が、首のあたりから平たく膨らみはじめ、手のひらをちょっと尖らせて前に突き出したような扁平形になったのであった。先が2つに割れた暗紅色の舌をチョロチョロ出しながら、「シュウウッ、シュッ」 と威嚇の声を絞り出す。狭い小屋に染みわたるような、かなり大きな音だった。私はそのたびに、握り締めたパイプに力をこめる。

イサがもう1本のパイプを持ってくるのに手間取ったので、このような状態が、夕闇の迫るポンプ小屋で10分ほど続いたのである。私は、奴の胴体をしっかり押さえ込んでいたから、恐怖はあまり感じなかった。むしろ初めての コブラ との対面に感動していたような気もする。最近、芥川賞を取ったあのへんてこな小説(題名は忘れた)の一場面を思い出したりもしていた。

イサが持ってきたもう1本のパイプで頭のあたりをめった突きにし、小屋の外に引っ張り出した。危険はなくなったので、妻と息子と泊り客のNさんを呼んで、戦果を披露した。もう鎌首を持ち上げることもなくなった コブラ は、頭部もごく普通の蛇と同じ形になって、空気が抜けたような感じがした。息子は コブラ に触りたがったが、「やめておけ」と言って思いとどまらせた。

友人の話では、本来バリ島には コブラ はいないのだそうだ。ペットとして飼われていたものが捨てられたり逃げ出したりしたものらしい。ジャワ島やスマトラ、カリマンタンにはかなり生息していて、ジョグジャカルタには コブラレストラン があると言う。身の引き締まった地鶏の肉のような味らしい。

「ところで、その コブラ は、どうした」
と、その友人(中国系インドネシア人)に聞かれたので、
「お手伝いに言って、川に捨てさせた」
と、こたえた。彼は、さも残念そうに言った。
「良い値で売れたのに。。。」
別の友人が言うのに、 コブラ は舌のあいだから毒を飛ばすのだそうだ。その毒が目に入ったりすると、失明の危険があるとのこと。私は立っていたのだし、奴はコンクリートの床の上に押さえつけられていたのだから、たとえ鎌首を持ち上げたにせ、、毒液が目に届くとは思えないが、テニスで転んで向う脛に擦過傷があった。脛と奴の鎌首との距離は、60センチほどだった。1週間ほど前には、息子が蛇にかまれた夢を見た、と妻が言う。
あの夕方から2日経った。思い出すごとに、恐ろしさがつのってくる。高値で売れたはずの コブラ をめった突きにして商品価値を台無しにし、ポイと川に捨ててしまったことも、ちょっと残念に思われる。

バリの州都デンパサール市の田園調布と言われるところにある、我が家のちょっと変わったできごとであった。



2004年3月4日


ジャヤギリ日記 (その3)

禁 煙 考 



2004年2月25日(水)
最近テニスをしていて、体の切れがいまいちのような感じがしたので、2月を期して禁煙することにした。2日間は禁煙を全うし、3日目にはシケモクを2本探し出して、吸った。案の定である。それからは、禁煙の定義を「タバコを買わなければ良い」と定め、タバコを吸っている人を見つけては、おねだりした。都合20日間ほどこの状態が続き、本数も減って体の調子もいくぶん良いように感じた。財布の中身も減らずにすんだ。

そんな時、Jさんがタバコを1箱もってきてくれた。友だちが置いていったタバコだという。ありがたく頂戴したが、それがいけなかった。そのタバコを吸ってしまった翌々日に、お手伝いに「タバコを2本買ってきてくれ」と言って、千ルピア(約12円)渡し、ワルンに買いに行かせた。ワルン(ごく小さな雑貨屋)ではタバコのバラ売りをしてくれるのだ。

その日は、その2本をフィルターが焼ける寸前まで大事に吸った。次の日また「2本買ってきてくれ」といったら、「めんどうだから一箱にしなさい」とお手伝いにいわれたので、その言葉に従った。(いま我が家に勤めているお手伝いは、非常にはっきり物申す働き者で、ご主人様に命令することが良くあるのだ。)

それでまた、禁煙の定義を変更せざるを得なくなった。考えに考えた末に得た結論はこうである。
(1) 禁煙するのは、良いことだ。
(2) 良いことは、やればやるほど良い。例えば、ピアノの練習のことを考えてみよう。1日8時間練習
    して次の練習は1週間後 という練習方法より、20分ずつ毎日練習するほうがはるかに上達す
    ることは、自明の理だ。
(3) ゆえに、禁煙も毎日こまめに何回にも分けて数多く実施すべきである。
(4) ただし、一日に、百回も五十回も禁煙するのは煩雑だし、かえって健康を損なう恐れがある。
・・・ということで、私は1日に12回程度の禁煙から始めることにして、現在にいたっている。おかげで、喫煙の害(本当にあるのかどうかは不明、だと信じる)と、「禁煙しなくちゃ」という日常的なストレスの両方から開放されて、日々是快適である。


なお、禁煙についての哲学的考察に関しては、土屋健二著「われ笑う、ゆえにわれあり」(文春文庫)に、私より詳しい洞察が述べられているので、参照されたい。



2004年2月26日


ジャヤギリ日記 (その2)

3都市対抗スポーツ大会



2004年2月22日(日)
日本人会の3都市(デンパサール、ジャカルタ、スラバヤ)対抗スポーツ大会が行われた。私は、ウェスティン・ホテルでのテニスの部に出場。種目は、男子・女子ダブルス、ミックスダブルス。昨年の好成績のおかげでシードの枠に入っていたが、男子ダブルスは2回戦、ミックスは3回戦で敗退。

いやはや、日中の炎天下。暑かった熱かった。たぶん軽く3リットルは水を飲んだと思う。結果は、ジャカルタチームの圧勝、スラバヤチーム最下位。ジャカルタチーム同士で、決勝戦をしてもしょうがない、ということで、ジャカルタのナンバーワンチーム(関西学生選手権で優勝した経験をもつNさん、50歳が強力)と、エキジビションマッチをさせてもらった。私はK氏と百十歳のペアを組んだ。何とか2セットを取って面目を施したが、実力の差は歴然。

大会終了後、プラザバリの大宴会場で懇親会。野球・サッカー・ゴルフの参加者もともに集って、大いに盛り上がった。

家に帰ってからが大変だった。日中の太陽のエネルギーとアルコールのせいで、体がほてって、熱中症寸前。小便もチョロチョロと出るだけ。水風呂に30分ほど浸かって身体を冷やし、素っ裸で寝てしまった。真夜中に目がさめたら、いつのまにかひんやりしたタイルの床の上で寝ていた。そのとき、試合を観戦していた20代の女性が、「スポーツっていいわね。私もテニス習おうかしら。」といっていたのを小耳にはさんだことを思い出した。

そう、スポーツができるというのは、人生の大きな楽しみの一つなのです。デンパサールチームのJさんとSさんの128歳ペアが、スラバヤチームのS領事ペアを、6−0のストレートで退けたのですから。



2004年2月21日


バリの男六代記 (その1)


《30代の男の歌》


バリに男が 住んでいた
まだあげ初めし 前髪の
レゴンの踊り子 追いかけて
むなしく一年 過ぎ去りぬ

デートに誘う 勇気なく
妻にめとる 金もない
ホンダのバイクに またがって
日暮れの街を ひた走る

真心だけの 人生じゃ
神の島でも 生きられぬ
飲みたい酒も つつしんで
レゴンのプナリ 抱きまくら

---------------------------------------------------------------------------------- レゴン......代表的なバリ舞踊の一つ。ユリアティと言う名の絶世の美女がいるそうだ。国立
           ウダヤナ大学生。
プナリ......インドネシア語。踊り手のこと。
抱きまくら....最近日本でもおなじみの、円柱形の枕。寝苦しい夏には、足にはさんで抱っこす
            るようにして眠ると、気持ちよく眠れる。



2004年2月4日


ジャヤギリ日記 (その1)


ラマダンの詩



年に一度の ことなれど
プアサはつらい 回教徒
朝の3時に 起こされて
ショボショボ飯を 食いにけり

早朝テニスで 水分が
身体の芯から 抜けてゆく
だるい気だるいかったるい
日陰を選んで 草むしり

断食明けまで あと5分
水とコーヒー 準備して
煙草と燐寸を 手に持って
夕焼け雲を ながめおり

2003年11月24日
    1ヶ月に渡る断食月間(ラマダン)が終わった。今回はさしたる気負いもなく断食(プアサ)に入り、まさに一点の曇りもなく断食を完了した。断食を成し遂げたからといってさしたる感慨もわかず、ただほっとしただけである。
  ざれ歌にあるように、テニスは平常どおりやっていた。午後4時ごろからするテニスではあまり汗をかかないが、早朝テニスは、まだ身体に水分がたくさんあるので、大汗をかいてしまい、その後一日中非常につらい思いをした。やることもなく蒸し暑いのでプールに入る。すると皮膚を通して水分が浸透してくるような感じがしていくらか気持がよい。
  プアサ期間中、Jさんの友だちが何組かきて、我が家では臨時の割烹料理屋を開店した。ジンバランの魚市場にマグロ、イカ、タイ、さば、アジなどを買い出しに行き、氷を入れた大きな発泡スチロールの箱に入れて、家に持ち帰る。14キロもあるキハダマグロは、捌いてサクを作るのに2時間ぐらいかかり、かなりの大仕事である。20本ほどのサクが取れるので、一部は知り合いに販売したりもする。
  今年は雨季に入るのが遅かったせいか、かなりの大雨が降って、4日も続けて雨模様の日があったりする。裏庭を歩くのにぬかってドロだらけになるので、敷石をしいて遊歩道を作った。裸足のままプールに行けるので具合がよい。そのご北側の塀に沿って、クリークを作る工事をしている。掘削から石運び、セメントこねまですべて自分でやっているので、2週間ほどかかった。まだ細かい仕上げが残っている。
    以前に作ったクリークは、今ではカンクン(空芯菜)が繁茂して、ときどきちぎり取っては油炒めなどにしているが、すこぶるおいしい。新しいクリークは幅も40センチ近くあるので、カンクンを植えて完全自給をめざす計画なのだ。
  わが家の西側は川幅3メートルほどの用水路になっている。上流から捨てられたごみがいっぱい流れてくる。乾季の水量が少ない時期に悪臭がしたので、塀に穴を開け川までパイプを通した。そこから週に一度、自家培養した EM拡大活性液 を流し込む。1回に10リットルほど流し込んでいるのだが、半年後にどうなるか多少楽しみにしている。


みなさま、よいお正月をお過ごしでしょうか。
年越しそばは食べそこないましたが、Jさんが切り餅を持ってきてくれたので、元日はお雑煮を食べました。たまたま泊り客もありましたので、アラック(椰子の樹液から作ったバリの焼酎)「大吟醸」を3人で痛飲しました。朝から、からりと晴れ渡ったよいお正月でした。今年もよろしく。






バリ島に関する質問・このコーナーで取り上げてほしい話題などございましたら、
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2003年2月1日 開設

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